【友だちという呪縛~ボッチ上等~】24 等身大の自分に目を向けて
前回から、2週間が過ぎてしまいました。
長いブランク、申し訳ありませんでした。
現在、私はスクールカウンセラーとして勤務しています。
中学校の教員として、また大学の非常勤講師として、若い世代と長い間関わり合ってきましたが、今目の前にいる子どもたちの抱えている問題は、
決して【子ども】だけの問題ではなく、私たちの社会が抱える問題そのものではないでしょうか。
そこで、『子どもたちの相談』を切り口として、私たちを息苦しくさせている『何か』に迫っていきたいと考えます。
「私を助けて」と訴えることができない子どもたちの背景・環境について考える。
子どもたちの状況1 思春期の発達段階について (詳細は以前のブログ参照)
① 身体の急激な変化
② 心の急激な変化
③ 他者との関係性の変化
子どもたちの状況2 対人関係形成力の低下 (詳細は以前のブログ参照)
① 狭い閉じた小集団の一員となる
② 小集団の中で、同調的な関係が優先される
そして、前回からもう一つの視点で考えています。
子どもたちの状況3 子どもたちを取り巻く環境の変化
① 日本社会のピアプレッシャー
② 自己肯定感は諸刃の剣?
前回、『自己肯定感が低い』ことはいけないのか?誰でもみんな、『自己肯定感が高く』なければならないのか?
という問題提起をしました。
みなさん、いかが思われましたか?
少し前に、『自己肯定感』が話題になり始めた頃には、確かに『自己肯定感』はキラキラ輝いていたように思います。
「そうだよね。自分はこの世ではかけがえのない、大切な人だよね」「みんなが、じぶんのことを大切に思うようになったら、世の中って生きや
すいよね」「みんながお互いに、そうした気持ちを大切にして認め合っていけたらいいよね」と、会話したことを覚えています。
でも、そうなったでしょうか?
青少年の自死の問題や、「いいね狂騒曲(と勝手にネーミングしました)」といった現状を見ると、夢見た心豊かな世界とはなっていない‥‥
では、何が間違っていたのでしょうか?
どこで間違えたのでしょうか?
本来『自己肯定感』は、私たちが生きていく上でとても大切なものであると考えます。
しかし、それは本来私たち自身が、自分でおこなう評価に基づいているべきものなのではないでしょうか?
例えば、ある人が絵を描くことが大好きで、毎日描いていた数々の絵画を、クリスマスの日のホームパーティで飾り、ゲストたちが鑑賞します。
それらの絵は、決して高い値段がつくものではありませんが、パーティの雰囲気を盛り上げてくれます。
そして、時には「この絵が好き。譲って」という申し出に、「もちろんいいですよ。」と笑顔で応じ、その絵がもらわれていくことに、心からの
満足を感じる‥
といったものではないかと考えます。
それは、決して「私、こんな有名な絵を購入したよ」と話し、多くの「いいね」がつくこととは異なると考えます。
そうなんです。
本来の『自己肯定感』は、自分自身で評価するものであり、他者と比較して「いいねが多かったからやったぁ」という類のものではないと考えま
す。
自分自身の中で評価が完了するのではなく、他者と比較することで、相対的な評価となり、結果として自分を追い詰めてしまっているのではない
でしょうか?
そうした誤った方向に進んだために、「美しくおいしい食事を食べずに写真とるだけ」「評価を高めるために、犯罪すれすれのことをする」とい
った本末転倒の出来事が生じてくるわけですよね。
こうなると、本来は私たちのこころの安定を図るはずの『自己肯定感』が、私たちの焦燥感や不安感を煽るもととなってしまっていると考えま
す。
いかがですか?
あまりにも『自己肯定感』を、心の安定の切り札にするのはやめませんか?
あまりにも『自己肯定感』を高めることに頑張るのをやめませんか?
今一度、等身大の自分を見つめることから始めませんか?
そして、ゆっくり呼吸してみましょうよ。
その中にこそ、大切にしたいことが見つけられるのではないかと考えます。
長く続きました、この連載はここで終了とします。
次回からは、週に1回「子どもたちから‥」というタイトルで、私が日頃付き合っている小学生から大学生の様子や考え等について、またそこか
ら私自身が考えさせられたことについて、お話します。
これからも、よろしくお付き合いください。
こうした身近な問題をもとに、参加者全員で話し合ったり、ロールプレイでスキルの練習をしたりする会【コミュニケーションカフェ】を開いて
います。
リアルでもOnlineでも開催しています。
詳しくは、このHPのトピックスをご覧ください。